論理は感覚に添い,感覚は論理に合う

だから,一般にまかり通ってるけど納得いかないようなことは
どこか論理がおかしいに違いなくて,
逆に,不思議と自然に感じてしまうことは,
どれだけヘンテコでも論理によって導けると思う.

論文が終わる気がしない

何か大きなことが終わる前って,
そのことが終わった後の世界があるなんて信じられないような感覚を
誰しも持ったことがあると思う.

たとえば,高校を卒業する間近,高校を卒業した後の自分が全く想像できなかったり,
他にも,自分の場合で言えば,
論文を提出した後の人生,サッカー部を引退した後の人生,
教習所を卒業した後の人生は想像できなかった.


ところで,『アキレスと亀』という話がある.
これは,「前方の亀をアキレスはいつまで経っても追い越すことは出来ない」という話で,
具体的には,「アキレスは亀と半分の距離を詰める.続いてアキレスはさらに半分の距離を詰める.アキレスは無限に距離を詰めるが,亀との間には常に距離が存在しており,アキレスは追いつくことは不可能である」というものである.
ただ,現実には前の人を早足で追い越すことは簡単に出来るわけであり,
これはただの屁理屈である.


ここで注目したいことは,この『アキレスと亀』という論理と
「大きなことが終わる前の時間が永遠に続く」という感覚が
非常に似ている点である.
だから,「大きなことが終わる前の永遠の時間」は,
0.999999...=1と同じでいつか終わるものだと納得しよう.

自分のことが一番よくわからない

この感覚も同様に,論理と照らし合わせることが出来る.

『あなたが読んでいる文は,嘘を述べている』

文が嘘をつくかどうかという議論は置いておくとして,
この文は,嘘か否かを決定することは出来ない.
なぜなら,文の内容を真に受けてみれば,「嘘を述べている」し,
内容は嘘であると検証してみると,
「嘘を述べている」ことが嘘になってしまうからだ.


この文のからくりは,「自分のことを言っている」点である.
だから同じ原理で『私は常に嘘を言う』も同じ論理になる.
正しく物事を否定出来るのは,その物事にとってメタ(第三者)な意見だけなのである.


本題に戻れば,自分が自分というものを第3者的に捉えることは,
自分でいる限り到底無理であり,
自分が自分以外になれない以上,根本的に無理なのである.
よって,他人からの自分は,根本的に理解し得ないのである.

感覚を研ぎ澄ませ

すばらしきこのせかい

すばらしきこのせかい

個人的に論理学を学ぶことは,感覚を研ぎ澄ませることだと思います.
普段から違和感に敏感に反応して,物事に隠されてる論理の破綻を見つけましょう.


論理学を記号化と解釈すれば,論理によって物事をシンプルに捉えられます.
シンプルであれば,破綻の正体をより簡単に見つけることが出来ます.
論理的なアプローチによって,問題を根本的に解決することが出来ます.
問題の解決によって,よりシンプルに物事を捉えられるようになります.
さらに,より敏感に違和感に反応できるようになります.
このプロセスが繰り返し続き,そのうち悟りのひとつやふたつ開けるでしょう.

ヒンドゥー教の本―インド神話が語る宇宙的覚醒への道 (NEW SIGHT MOOK Books Esoterica 12号)

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後記

以上,『無限論の教室』を最近読んで思いついたことでした.:P

無限論の教室 (講談社現代新書)

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あと,強引に持ってっちゃってるところは承知してるので,論理的な追求は勘弁下さい.